「彼女たちは歌う」 Listen to Her Song

東京芸大 I LOVE YOU プロジェクト展覧会

東京藝術大学 美術館陳列館
2020年8月18日 - 9月6日
(本展は会期終了いたしました)

2020年8月 「彼女たちは歌う」設営中の百瀬文
写真=堀蓮太郎

彼女たちは語る
vol.3
2020.9.30 発行

ウェブマガジン『彼女たちは語る』について

『彼女たちは語る』は、展覧会「彼女たちは歌う」(2020年8月18日〜9月6日、東京藝術大学美術館陳列館)にあわせて発行されたウェブマガジン。コロナウイルスの影響により直接会うことができない中、展覧会前にオンラインで重ねた参加アーティストたちとのディスカッションや、会期中のトークイベントの記録を通して、ジェンダーや美術教育の課題について考える。展覧会の会期終了後も続けて発行していく。

オンライン・ミーティング(2020年5月21日)参加メンバー

どんな「文法」を使おうか

荒木

前回のミーティングでは、お互いの言葉にじっくりと耳を傾けることができて、貴重なアイデアも、ショックな事実も、みなさんと共有できました。展覧会準備期間ですが、今日も話題を限定しないで、自由奔放に語り合えればと思っています。どんなことから話していきましょうか。

百瀬

私の個人的な感覚の変化なんですけど、少しずつ、自分なりの文法で話せるようになってきたかも、って思っています。昔と比べて。

荒木

それはどういう時に感じるんでしょうか。

百瀬

例えば、トークイベントに呼ばれる時とかに。当時の私は、批評の言葉が男性中心的な目線で作られていると感じていたんです。その前提を共有している女性としてイベントに呼ばれているんだと思っていました。私は構造的に言葉で説明しやすい作品も作っているから。

荒木

よくわかります。

百瀬

美術界の中で自分の発言をする時に、私もいわゆる批評言語みたいなものをインストールしていったと思うんです。そういうことをしていくうちに、自分の中にあった自然な言葉のあり方を、ないがしろにしてしまったんじゃないかと反省してて。

荒木

うんうん。

百瀬

今は私は結構小説とかを書いたりもしてるんです。自分なりの文法みたいなものを獲得できたらなと思っていて。トークイベントでも、誰かに与えられた言葉ではない言葉でしゃべるっていうことに意識的になるような。そんな努力をしてますね。

荒木

そうそう。すごく面白い話です。そうなんですよ。私も振り返ると。

百瀬

荒木さんも?

荒木

男性社会の中で上司が男性だから、権力者の彼らを納得させる言葉や態度を身につけざるをえなかったし。あと現代美術の世界は圧倒的に西欧男性中心なんで、それを求められてきたと思う。百瀬さんが以前「肩パット」と呼んでいた気負いみたいなものかな。

一同

(笑)

荒木

でも一方で、学生時代に映画の話とか本の話とかをしたのは、男子たちとの方が多かったんです。言語化して議論することをなぜかしやすかったことを覚えています。

百瀬

そうなんですね。

荒木

だからそこら辺っていうのはなかなか複雑。自分が割り当てられた性別のマジョリティが使う文法で話したい時と、そうでない時がある、というのか。

百瀬

「女性の」ということではなくて、何かその人にとっての自然な話し方っていうのが一番しっくりくると思うんです。要請されて、処世術として身につけるというものじゃなくて。

荒木

性差や性別というのはそんなに単純なものではないから、個々人の使いたい文法がその時によって違う。ただ、社会的にあまりにも語り方が男性に偏ってきたことが問題で。政治も批評も。もっと女性のというか、別の文法や話し方を導入する必要がある。これは百瀬さんとは前からよく話しているよね。今回の展覧会に出ている《Love Condition》は、百瀬さんと遠藤さんが「理想の性器」について延々1時間以上も「おしゃべり」する内容で、すごくいい試みですよね。

遠藤麻衣 × 百瀬文《Love Condition》2020
「彼女たちは歌う」展覧会場風景

ロールプレイをどう演じるか

荒木

百瀬さんは、自衛官がいっぱい来るスナックで、ホステスをやっていたって言ってたじゃない。その仕事がとても楽しかったと。その時、お客さんとしゃべっていた百瀬さんは、自然な百瀬さんだったということ?

百瀬

素の私ってわけでもなくて、ロールプレイとしての楽しさがあったってことです。普段から人々はみんな何かしらの仮面をつけて、それをつけたまま暮らしている訳で。スナックっていうのはその仮面をつけ替えることができる場所だと思っています。

荒木

うんうん。

百瀬

その瞬間だけ擬似的な恋人として過ごすような、そういうロールプレイ。その対価としてお金を受け取る。その刹那的な演劇性が面白かったというか。

荒木

なるほど、ロール。金さんの場合には、ロールプレイということで考えてみると、どうでしょう。子供のころから、日本人として、韓国人としてというような、周囲からの要求があったんじゃないでしょうか。

周りの目線に合わせて演じることが多かったと思います。周りも、見たいように見ます。母は日本人なので、母方に行くと日本人としての孫を。父方に行った時は日本の要素はなくなります。学校は朝鮮学校に通っていたので北(北朝鮮)の要素が強かったり。

荒木

忙しいね。

見られている役割を演じてたと思います。アーティストになってからは、周りの目線と自分のギャップを無くしたくなりました。いろんな国が混在する、ただのキム・インスクを目指してます。だから、作品もユートピアみたいになるんですよね。それは求めているところでもあります。

荒木

確かに。朝鮮学校の子供たちを撮った《sweet hours》(2001-)では特にユートピア的幸福感があふれていたのが印象的です。

金仁淑《sweet hours》2001

でももう面倒なときは…たとえば韓国でタクシー乗ったら、運転手さんすごいしゃべるんです。結婚してるの?何歳なの?「結婚してません」って答えたらじゃうちの息子紹介するよ!結婚したらしたで何で子供いないの?みたいな。そんなノリで。延々(笑)

荒木

嵐のような質問。

私はそういう時は「日本人はプライベートなことを聞かれるのは嫌いだから」って言ったり。なまってた頃は、お前どこの国からきた?って聞かれたら、「中国の延辺エンぺンです」って言ったり。

一同

(笑)

タクシーでは結構ロールプレイをやってます。運転手さんとは一度しか会わないし。自分だけ個人情報を話すのが悔しくなってきて。運転手さんは自分のことをほとんど話さないので。

日本語を話す時に声が高くなる?
文化によって変わる女性の声の高さ

副島

韓国語ではどうなのか、お聞きしたいんですけど。日本語って、女性と男性でしゃべり方や言葉遣いも変わってくると思うんですよ。

うんうん。

副島

たとえば私っていう一人称もそうですし。何か語尾が柔らかくなったりとか。日本語話している時に、性格が何かこう話す言葉や場面に変わるなと感じているんです。

荒木

なるほどね。

副島

韓国語ではそういう男女間の言語の違いってありますか?

スラングなどは抑揚や言葉に違いがあることもありますが、一人称は同じ言葉で表します。語尾もほぼ同じ。ソウルで話す標準語はトーンが低いので、自分には女性よりも男性の話し方のほうが優しく聞こえることもあります。

荒木

なるほど。

私も韓国語だと、日本語より低いトーンで話しています。

副島

そうなんですか。

韓国人の男性がアニメーションで日本語を学ぶと高いトーンで話すので大変そう。アニメのトーンで私に話しかけてきた人も(笑)

副島

(笑)

展覧会設営風景

百瀬

私、声に関する作品を作っていた時に色々調べたんですけど、ジェンダーバランスが適正な国ほど女性の声が平均的に低くなる、っていう統計があるみたいなんですね。たとえばドイツの女性は声が低いけど、日本の女性は声が高くなりがちというような。

韓国のバラエティー番組などで日本人女性を表現するとき、甲高い声を真似します。韓国語の母音は舌を少し押すように発音するので、正確に発音すると同じ「あいうえお」でも日本語よりトーンが低くなります。韓国に行ったばかりの頃は日本語に近い発音しかできなかったので、日本からきたでしょ、って即バレでした。

副島

確かに、韓国の友人と話していると声が若干低めの子たちが多い。とても聞き取りやすいです。ジェンダーバランスと関係あるというのも、すごく納得しました。

「ジェンダー問題」の多様性

じつは、自分にとっては文化間の違いが大きな問題だったので、男女の違いについてあまり気にしたことがなかったんです。韓国の現代美術界なら、女性だから展覧会に出られななんてことは、逆にタブーなので。

荒木

日本の状況は意外に感じる?

はい。前回の皆さんのディスカッションの文字起こし( 「彼女たちは語る」vol.1 vol.2  )を読ませてもらった時は…「え!本当にこんなことが!?」というカルチャーショックがありました。

荒木

シリアスな内容でしたよね。私もみなさんの話を聞けて本当によかった。韓国の男性は、レディ・ファーストという評判を聞きますけど。

そういうマナーはあります(笑)しかしそれとは別に、儒教の国なので、年代別の差異とか、パワハラ的な体質が根深いです。

荒木

副島さんが、以前メールの中で、イギリスでは性差以上に、出身階級や貧富、文化や宗教の違いによる差別が強くて、女性差別という問題がある意味軽く見られてしまうっていうような趣旨のことをおっしゃっていたと思うんですけれども。どうですか。

副島

そうですね、女性について話す時、白人が多い社会では、白人の女性を中心に考えてしまう危険があります。例えば私たちみたいなアジア人であったり、黒人の人たちであったり、少数派の女性たちの声や問題がないがしろにされてしまうということは、すごく感じてます。

荒木

うんうん。

副島

文化が違うことによって、どうしても同じ土俵で女性の問題を話すことが難しい。アジアだったらこういう問題がある、また別の地域だったらこういった問題がある、非常に性質が多様なんですけど。そういった問題が、あまり表立ってこなかったんじゃないでしょうか。

荒木

今後どう変わっていくと思う?

副島

ロンドンの大学は、色んな国籍の人達やバックグラウンドを持った学生が大多数を占めています。学内でもバランスを取るための仕組みは積極的に作られていて、その価値観が学生にも根付いて影響されています。英語を母国語としない外国人の女性が教員として採用されたり、年齢やジェンダーの比率のバランスが考慮されていたり。目に見える変化があるので、学生もそのような問題をちゃんと認識しているんじゃないかな。

副島しのぶ《鬼とやなり》2019

私はジェンダーギャップがあるってことを強く認識しないまま、国外に出ちゃったんです。だから大人になってから、色々とショックだった。皆さんのお話も読ませていただいて胸が痛いです。

荒木

ちなみに、どんな話題がショックでした?

ギャラリーで男性から若い女性アーティストが「お嬢ちゃん」って言われたとか。あり得ないですね。韓国のフェミニズム運動は盛んですけど、大抵性暴力とか、パワハラに対しての問題が取り上げられるので。

荒木

確かに韓国に行くとフェミニズムのすごく過激な作品がたくさんあるんですよね。そして、そういう作家が主要なコンテストにちゃんと選ばれてる。重要なコリアン・アートプライズも女性がノミネートされ、受賞している。内容もとても政治的な作品で。むしろ女性アーティストの方が目立つぐらい。自由だな、羨ましいなって、韓国行くたびに思うんです。日本とは何が違うのだろう。

違いにはびっくりしています。韓国について考えてみると、独立運動の時から女性も一緒に活躍してきたから、女性アーティストへのリスペクトがあるという説や、アートと女性の社会的地位が低くて、美大への進学率が女性のほうが多かったという話も聞いたことがあります。韓国の現代美術が盛んになった時期が遅くて2000年以降に特に発展してるので、それもあるかもしれませんね。

直接的な表現へのアレルギー

なにより、現代美術界では世界の水準で考えるから。女性キュレーターもたくさん活躍しているし。もちろん社会全体で見ればいろんな問題があります。むしろ日本より大変だったみたいですけどね、特に上の世代は。

百瀬

私もソウル市立美術館のアーティスト・イン・レジデンスに行ったことがあって、とても刺激を受けました。表現がダイレクトなものを出しても、それが価値として評価されるっていうのが日本とは異なると感じました。やっぱり日本の教育のせいなのかなと思うんですけど。

荒木

比較してみて日本の美術に感じることは?

百瀬

多義的であることと曖昧であることは似て非なるものだと思いますけど、そういうものが全体的に好まれる空気ですかね。韓国と比較して、ということでもちろん全てではないですけど。

韓国では曖昧だとめちゃくちゃ叩かれます。学生時代や若い頃は特にそうでした。「もっとはっきり言いなさい!」「なんで言語化できないの!」と。イメージと自分の言いたいことが直結してて、納得させることができないと、相手にされないこともよくあります。感情や感覚的でうまく言語化できなかった頃は、強い批判を受けたこともあります。

荒木

そうなんだ(笑)

韓国で大学院に行ったのでいい感じにちょうど半々くらい、感覚的なものとコンセプチュアルなものをいかに両立させていくかを考えるようになりました。クリアに、説明的すぎず、どうやったら自分の考えを観覧者と共有できるかっていうのを20代、30代で考えてきました。

荒木

そうですね。だから私もね、何を言おうとしてるのかわからない作品を作る学生たちには伝えてるんだよね。作者がこれやりすぎだよっていうくらい、自分としては200%ぐらいのことをやって、やっと他人にちょっと伝わる程度だからって。特に若い時には、なるべく明確にコンセプトを伝える訓練が必要だと思っています。

展覧会設営風景

百瀬

私が美大で教育を受けていた時の先生たちの中には、直接的なものに対するアレルギーみたいなものがあったと感じます。

副島

学部時代、政治的な発言をしてみたり、そういった直接的な作品を制作する同級生がいたんですけれど。特定の教授との意見が合わないことによって作品自体がどうとかっていうより…自分の政治意識と違うからもう本当に叩かれるって言うか。

荒木

そんな風に一方的に攻撃しちゃだめだよね。学生が主張したいことに対しては。

副島

学生と議論するっていうわけではなくて、おかしいって高圧的に叩かれることによって、そういう発言しちゃいけないんだという風潮が生まれてたなと思います。自分の考えを作品じゃなくてSNSで呟くようになっちゃうっていうか…。

荒木

環境に問題があるかも。直接的な表現をしたらクールじゃない、アートじゃない、みたいな考え方をしてる人が多い。いまはそういう教育になってしまってる気がする。

写真は「あなたは何を見つめてるの?」っていうのがないとやっぱり作れない。私はそういう教育を日本の写真学校で受けましたけどね。

荒木

それはいい学校でしたね。全体的に見ると、写真も曖昧な、空気感や雰囲気を伝えるような作品が好まれる傾向はあると思う。例えば米田知子さんのような、ジャーナリズムに原点をもつ硬派で社会性を追求するタイプの写真家の数が少ないと感じる。アメリカやイギリスの美大の写真教育では、「なぜあなたがこれを撮らなきゃいけないのか」っていうことをすごく問われると聞きました。

教員と学生がよりフラットな関係になるには?

荒木

副島さんはイギリスでも教育を受けていたから、日本の教員と学生の間にあるヒエラルキーに、違和感感じると。特に芸大の場合は男性教員の数が圧倒的に多い、そして学生は女性が圧倒的に多い。そうすると男性対女性みたいになっちゃう。妙な教育スタイルになってしまっているよね。

副島

はい。個々の教授が意図的ではないにしても、教育システム上そういう構図が生まれてしまいます。例えば、イギリスの講評会では学生が作品をプレゼンすると、別の学生からどんどん質問が出て議論になる。たまにその議論を軌道修正するために教授が入ってくれるんです。

荒木

教授はファシリテーターの役割を授業の中で果たしているってことなんですね。

副島

学生も教師も円形状になったり、現場もちゃんと作られています。性別もそうですし、立場的なヒエラルキーも感じず、みんな同じ土俵で発言するのが正しいし、それが許されてるっていう意識。

荒木

そうあるべきだよね。

副島

日本に帰ってきたら、授業中にちょっと気になることあるなと思ってもそこで発言することができない。発言するとちょっと空気読めないってことになっちゃう。ここ分からなかったんですけどこれはどういうことなんですか説明してくださいっていうのも、時に攻撃的に見えてしまうように感じました。それが学生間だったとしても。

荒木

聞きたいことは聞く。言いたいことは言う。それが一番だよね。イギリスの大学では学生が「あっちゃ〜」って作品作っちゃった場合は、どうでしたか。

副島

学生からもここが意味がわからないとか、教授からもあなたはこの作品についてどう思ってるのって、まずは本人に発言を促します。発言するときの一人称はもちろん “I” ですから「良くない」という意見も、「私は良くないと思う」っていうあくまで個人の意見として伝わる。それに、教授に対して反論したって全然許されますし、むしろ、やり返されるのを待っている状態。新しい答えが出てくるのを促すような討論になってるなと感じます。

荒木

いいね。現役の皆さんどう思う?五十嵐さんは?

五十嵐

ちょうど今ちょっと思い出してふつふつと怒りがこみ上げてきたんです。以前、講評中に反論した学生が「でも、僕はこう思うんです」っていうことを言ったんです。講評してた先生は「そういう風に、“でもでも”言わない方がいいよ。僕たちもそうすると講評する気なくしちゃうからさ」みたいな趣旨の発言をして。

副島

えっ。

五十嵐

私もその時えっ?て思いました。そのまま講評は進んで、その子がとっさに「でも」って言っちゃったんです。そしたら、その瞬間に「ほらまた、それだよ」って。あの時は「え?これ講評の場なのに何でこんなことが起きるんだろ?私の思い違いかな?」って思いました。怒りが再燃してきました。

荒木

五十嵐さんありがとう。他にも、何か経験を話せる人はいる?

展覧会設営風景

松本

私はそもそも、講評というものにあんまり期待してなくて。失礼な話かもしれないですけど。内容も、あんまり覚えてなくて。

五十嵐

時間がすごく短いなって感じます。せっかく全員揃うような場があるし、作品も目の前にある。皆が発言できるぐらいの時間を…といつも思います。

百瀬

もしかしたら、もうちょっと、講評の前に準備できることがあるのかなと思って。例えば関連するテーマで作品を作ってる人たちは、グループにしてそれぞれディスカッションしたりするとか。

副島

学生を7人ぐらいにして、日にちを分けてみるとか。自由に学生が参加することによって、他の人の作品に対しても発言して、議論を生む、みたいな空間が生まれるといいなって思います。

松本

あんまり大学入ってからボコボコにされたみたいな経験がなくて。荒木さんの講評は受けたことがないです。だからなんかボコボコにしてもらいたいなって(笑)

五十嵐

割と周りでもボコボコにされたい欲はよく聞きます。

荒木

確実に私が一番厳しいと思います(笑)周りの先生たちは優しい人が多いという印象ですね。もう少し厳しく、かつ親身になってもいいのではないかなと思う時があります。そこでぶつかることなく「頑張ったね」で終われれば楽は楽だよ。やり直してみたら?っていうのって、学生だってむっとしたりするわけだし、それってちょっとストレスが、コンフリクトが生じちゃうものじゃない。私はボコボコにするつもりだけど(笑)

松本

はい…(笑)

次号へ続く

「彼女たちは語る」では、展覧会「彼女たちは歌う」の会期終了後も継続して、オンライン・ミーティングやトークイベントの情報を配信します。更新情報は展覧会公式 Twitter @Listen2Her_Song でお知らせします。